誠味の歴史

「山椒入り松茸昆布 松福」誕生

平成11年2月に完成したのが「山椒入り松茸昆布 松福」でした。
  「松福」は、昆布は代々小倉屋が最も大切にしてきた最高級品の道南産の天然元揃え昆布のみを使い、直火炊きで少量ずつ、僅か6キロの松茸昆布を炊き上げるのに仕込みから始まって3日もかけるほどの手のかけようで、誠味を代表する商品として「日本一の松茸昆布」として誰もが納得していただける商品を作りたいとの一心で作り上げた逸品でした。

松茸は、創業期の伝説の松茸昆布にあやかって、昆布に対して3対1とたっぷり入れました。
また、対面販売の鮮度感についても当時を模して店頭での計り売りを再現しました。40年前の光景が店頭で復活しました。

また、この新しい松茸昆布を発売するにあたって、思いを込めて新しい誠味のロゴマークとして、「仲良く」や「助け合い」を象徴する「おしどり」をモチーフにしたものを作成し、この新しい松茸昆布用の包装資材から使用を始めました。
そして商品名は、「この松茸昆布で、幸せを運べるように」との思いを込めて「松福」としました。

誠味ブランドの設立

創業当初から一夫が作る昆布の佃煮は神戸の人たちの爆発的な支持を受け、事業は順調に成長してゆきました。朝、昆布佃煮を買いに来た人が、夕方また買いに来るようなことも多かったようです。やがて製品の幅も広がり、販売も全国へと拡大してゆきました。

ところが、日本の経済が発達し開発が進んでゆくとだんだん松茸の量も少なくなってゆき、いつしか秋の風物詩である松茸も庶民の手の届かない高価なものになってしまい、店頭からも松茸昆布は消えてしまいました。
いつかあのおいしかった松茸昆布を復活できる道はないだろうかと常々思っていたところ、20年もたってからチャンスは巡ってきました。
日本産の松茸はもう僅かになってしまいとても手が出る価格ではなくなってしまいましたが、世の中が落ち着いてくる中で朝鮮産の松茸が出回るようになったのです。朝鮮の松茸は風味も日本のものに大変近く、「よし、あのおいしかった松茸昆布を復活させよう」と決意しました。

長年の悲願である松茸昆布を再開するにあたって、創業来培ってきた佃煮製造技術へのこだわりや物作りに対する心意気やすべてを世に問う思いでやってゆこうと決意しました。
販売先も、最高の商品ばかりが集う百貨店に定め、経営者の信条を伝える誠の味「誠味」という新ブランドに思いを託して昭和51年株式会社誠味がスタートしました。
ちょうど創業から25年目の春、柳本一夫45才でした。

小倉屋柳本の誕生 

昭和23年秋、小倉屋昆布創業者松原久右衛門の出身地と同じ淡路島三原郡西淡町松帆村志知川出身の柳本一夫は、居内家に嫁いでいた叔母からの誘いで、小倉屋居内3代目に当る息子の永吉郎さんの手伝いとして大阪へと丁稚奉公に向かいました。

尼崎出屋敷の店に入店してからは、店主の永吉郎さんを手伝って懸命に働き、1年後には福島に新設された工場の責任者となって大阪へ卸売りをスタートしました。
その後一年半の間に売上は40倍まで伸びてゆきました。
小さい釜からスタートしてやがて大釜に変わり、配達もはじめは普通の自転車からリムの太い荷物の大運搬用の大型自転車に買い替え、一度に1斗タル(今の15㌔)を12タル積んで運べるように腕を磨いていったので、得意先の人からは「トラックさん」が来たと面白おかしく呼んでもらえるほどになりました。

畑原市場で創業親方の店にお世話になって3年後、昭和26年12月26日、拡張の功績を認めていただいて、神戸市灘区の畑原市場で、いよいよのれん分けを許され独立することになりました。
小倉屋居内商店で学んだことは、世の為人の為に貢献しない限り利益はついてこない、ということでした。事実40倍への売上の発展に応じて部下が増え、多くのことが身についていきました。

そして創業の日を迎えたのでした。

をぐら昆布系友会

久右衛門は、時代の動きを敏感にキャッチして、天性の商才と努力によって、短期間で店の地盤を築いてゆきました。明治17年(1882年)、養子の松原久七が2代目を継承。この頃には昆布は既に「岩おこし」と共に大阪名物の一つとなっていたようです。
さらに、明治22年(1887年)、久七の死去にともない息子の松原新次郎が2代目久七を襲名、小倉屋総本家の3代目当主となりました。

小倉昆布

総本家の隆盛と共に歴代の小倉屋に奉公してのれん分けを認められた者たちが少しずつ増えていきましたが、別家したものは主家の伝統を受け継ぎ、「のれん」に恥じない商いをすることが主家への恩返しでした。
そんなのれん分けを許された一人に、居内万蔵がいました。
後にマルヤナギの創業者である柳本一夫がお世話になりのれん分けをしていただくことになる「小倉屋居内」の創業者です。

小倉屋総本家を出発としてのれん分けを許された別家は明治36年「小倉屋会」を結成、大正12年に「をぐら昆布系友会」と改称し、小倉屋昆布創業者をはじめとする諸先輩の功績に敬意を払い感謝の念を持ちつつ、小倉屋の信用と名声に恥じない高品質の商品の提供を続け、今日に至っています。

小倉屋昆布の発祥

小倉百人一首 小倉屋という屋号は、百人一首にも入っている平安時代、藤原忠平の歌「小倉山 峰の紅葉葉心あらば いまひとたびのみゆき待たなむ」に由来します。
京都の嵐山にある小倉山の美しい紅葉よ、醍醐天皇の行幸があるまで、心あるなら散らずに待っていてくれないか、という意味の歌で、戦前から小倉屋昆布の包装紙などには紅葉葉がデザインされていたそうです。

小倉屋を商号とする商店は江戸時代から大阪にあったようですが、文久9年(1826年)11月11日、淡路島三原郡に生まれた松原久右衛門は、びん付油商小倉屋彦兵衛方に奉公後、無事勤め上げて、彦兵衛の信頼も得てのれん分けの許しをいただきました。
ただ、商標の使用は認められたものの主人と同じ商品を取り扱うことは許されなかったので、久右衛門が選んだのが昆布商でした。

久右衛門は、昆布に己の運命をかけて、大阪の西区新町に昆布商ののれんを掲げました。
これが、小倉屋昆布の発祥であり、久右衛門の「久」が小倉屋の商標である「山久」の由来となりました。時に嘉永元年1848年、久右衛門22歳でした。

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